小布施の地名の由来はさだかではありません。ただ一説によると、千曲川(ちくまがわ)と松川が合流する場所である事から「逢瀬(おうせ)」が語源ではないかとの説があります。これと関係があるのかは判りませんが、小布施の上町には逢瀬神社という社もあります。


小布施の栗の起源には二説あります。ひとつは、弘法大師が三つの栗の実を小布施の「親木」地区に植えられたという言い伝えです。いまでも親木の神社境内には大師堂があり、6月には栗祭が行われています。もうひとつは、室町時代中期の1367年丹波地方の豪族・荻野常倫が当地に移り住み、持参した栗の苗木を植えたのが始まりという説です。ともあれ小布施の栗は、江戸時代には味の良さで定評があり、松代藩から幕府への献上栗とされていました。


もっともポピュラーな栗料理は栗ご飯で、小布施堂本宅では茶飯に栗を入れます。そのほか家庭菓子としては「茶巾絞り」や「渋皮煮」などで、家によっては「栗鹿の子」を作るお宅もあります。


明治30年代(1897〜1906)に、桝一市村酒造場が缶詰技術と工場制の生産方式を導入して栗菓子の製造を始めたのが、小布施堂の前身です。更に、栗の生産農家の出資も仰いで株式会社を設立したのが、大正12(1923)年のことでした。当時から東京の百貨店は、重要な販路のひとつでした。


本当です。江戸時代の家業は商社、塩問屋、大名貸、茶問屋、菜種油、酒造業、薬屋などでした。明治以後のビジネスが、味噌・醤油製造業や栗菓子製造業などです。ですから、残っている家業が、わずかに酒造業と栗菓子製造業だけ??というわけです。


小布施堂を営む市村家の第12代高井鴻山(市村三九郎)が、葛飾北斎を小布施に招きました。北斎は晩年の3年半の間、数回に渡って小布施で過ごし、寺や屋台の天井絵を描きました。
北斎は鴻山を「旦那様」と呼び、鴻山は北斎を「先生」と呼んでいたと伝わっております。


市村家第10代市村作左衛門は、天明の飢饉に際し幕府に1万両の寄付をしましたが、それに対し幕府から名字帯刀を許され下賜(かし)された苗字が高井でした(当時はこの地が高井郡だった)。しかし、江戸から明治の激動期に一族で家業の再編成が行われ、酒造業は鴻山の義子であった市村忠助(第13代)が継いだので、以後は市村姓になりました。


葛飾北斎作の傘風子です。「傘風子図」は小布施堂に代々伝わる作品です。落款の「北斎」から考えると40歳代である1800年代初期の作品ではないかと思われます。描かれているのは風の神(風師)が傘に乗って天の河を渡るという図柄です。原画は、茶掛け軸仕立ての小品(約25cm角)ですが、栗菓子工場「傘風舎」玄関には2m75cm角に拡大した陶板が飾られています。
この図の飄々とした風情をイラストにして小布施堂のシンボルキャラクターとしています。